米ヘルムズ議員の国連叩き

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アドバイザー春氏の投稿です。

結構前の話になるが、90年代国連はアメリカ共和党ヘルムズ氏の先頭するバッシングに会い、国際機関全体が影響を受けた。当時の国連事務総長ブトロス・ガリ氏の、国連が中心となって冷戦終了後の国際秩序を模索していくべきだという野心的なビジョンは、ヘルムズ氏の保守思想をいたく刺激し、アメリカ議会は国連と衝突の道をとるようになった。1996年『Foreign Affairs』誌掲載のヘルムズ議員のガリ氏に対する以下の反論後、議会は国連の分担金を大っぴらに滞納するという挙に出た。

「最近の国連は加盟国諸国家のための機関というよりそれ自体がひとつの国家になってしまったような観がある。独自の軍隊を持ちたいといってみたり、税金を徴収したいなどといったり、いったい何様のつもりなのだろう。ガリ事務総長は冷戦の終了とともに国家の絶対主権の時代は終わった、という。たしかに今日、我々の抱える諸問題はグローバルなもので国境を越えた対応が必要である。しかしそれは諸国家が主権を国連のような国際機関に委譲すべきだという議論には繋がらない。例えばイスタンブールで開催されたHABITAT II。ここでのテーマは都市の抱える問題だったが、これなどは国連が扱う前に、国家、それ以上に地方自治体がまず考えるべきローカルな性格の問題ではあるまいか。国連がどこにでもしゃしゃり出てくるようになったのはブトロス・ガリ氏が事務総長になってからのことである。

とにかく現在の国連機関は間口を広げすぎている。宇宙の平和利用委員会に「なにびとも大気圏外から侵入してくる不審な物体を目撃したときにはただちに事務総長に報告しなければならない」という決議がある。UFOが目撃された時のために予算がつき、職員が待機しているのだ。これは事務局の経営形態が放漫であることもだが、国連の官僚達が「国際」とつけば何でも自分たちの仕事だと思いこんでいるからで、加盟国国民の税金を、勝手な事業を作って独りよがりに使いまくっている例である。

昨今のPKOなどは当初の意図から全くはずれ、選挙管理から難民の世話、国の復興事業までも「平和維持」の名のもとに行なおうとしている。このように勝手に拡大された定義にカネをだせ、などと云われてはたまったものではない。拠出金はアメリカ国民の血税なので、アメリカ国益にかなった使い方がされるべきだ。これらへの対処法として、アメリカが国益にそわないと判断したプロジェクト(例えばPKO)にはカネをださないというやり方はどうだろう。プロジェクトの財政は、安保理や総会で賛成した国々だけが受け持てばよい。こうすれば本当に必要なプロジェクトしか行なわれないし、野放図な国際官僚の専断もコントロールできるというものだ。」

ヘルムズ論は国連、国際機関は「外交の手段であって、それ自体が目的ではない」という視点から、「外交の道具としての国際連合」という概念を示唆している。日本にとっての国連およびその事業と国益の結びつきを考える際、オカネやヒトをだし貢献する、すなわち使われる、ということでなく、国連機関を「あやつる」くらいの気合で国益達成に向けて成果をあげる、という外交技術の問題が提起されているように思えるだ。

90年代の国連はヘルムズ氏の強引な理論と実践の犠牲者であったが、彼の言動は、ガリ国連事務総長の組織のキャパシティを無視したビジョンに対し、毒をもって毒を制したというか、効果的にブレーキをかけたという見方もできる、と考えている。

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